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題未亭

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ミカ・ハッキネン

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ミカ・ハッキネン(Mika・Hakkinen)

 

本   名 
ミカ・パウリ・ハッキネン (Mika Pauli Hakinen)
通   称
フライング・フィン  北欧の貴公子
生年月日

1968年9月28日 (フィンランド出身)

主な記録

1990年 イギリスF3チャンピオン (全18戦中 9勝/PP12回)

1998年・1999年 F1ワールドチャンピオン

出走 161回 (歴代 16位)
優勝  20回 (歴代 11位) 
PP   26回 (歴代 7位))
FL   25回 (歴代 5位)
獲得ポイント 420点 (歴代8位)

F1での主な戦績
1991年 ロータス102B・ジャッド
決勝最高位 5位
予選最高位 13位
シリーズ 15位(2P)

◆1990年イギリスF3チャンピオンを獲得すると、翌91年にF1にステップアップを飾る。
しかし名門ロータスは低落傾向にあった。チームメイトも、J.ベイリー J.ハーバート M.バーテルズ らが入れ替わりにマシン乗るという不安定な状態。ハッキネンはルーキーでありながら実質的にエースの重責を担う事となる。
非力なマシンながらデビュー戦で予選13位を獲得。第3戦サンマリノGPでは予選25位から5位に初入賞。その速さは大きな注目を浴びることとなる。しかし、マシンの力不足は深刻で、第7戦フランスGPでは初の予選落ちの屈辱を味わう。結局初戦以外は全て予選20位台に終わる。
1992年 ロータス102D・フォード  107フォード
決勝最高位 4位 
予選最高位 7位
シリーズ   8位(11P)

◆エンジンにフォードHBを搭載、チームメイトもジョニー・ハーバートとなる。ハッキネンハーバートの若いドライバーは気が合い、チームは明るいムードにあふれる。しかしマシンの戦闘力は昨年よりはやや向上したとはいえまだまだ厳しく入賞を狙うのがやっとの状態。そんな中、ハッキネンは第8戦フランスGP、第11戦ハンガリーGPでの4位入賞をはじめ、5位1回、6位3回と入賞。実力に定評を得ていたハーバートを上回る活躍は大きく評価を高める。
1993年 マクラーレンMP4/8・フォード  (14,15,16戦のみ参戦)
最高位 3位 
予選最高位 3位
シリーズ 15位(4P)

◆マクラーレンに移籍。この年のマクラーレンはホンダエンジンを失い、フォードエンジンで戦わざるをえず、セナが1戦毎の契約という得意な状況下でサードドライバー兼テストドライバーという契約だった。しかし、セナは結局参戦を続け、ハッキネンの出番は無いかと思われたが、セカンドドライバーのマイケル・アンドレッティが13戦を最後にシーズン中に離脱、第14戦ポルトガルGPから復帰することとなる。
その復帰初戦でいきなり予選3位と自己最高グリッドを獲得。しかも予選4位のセナを上回り、一気に注目を浴びる。続く第15戦日本GPでは初の表彰台を獲得。
1994年 マクラーレンMP4/9・プジョー
決勝最高位  2位 
予選最高位  2位
シリーズ    4位(26P)

◆セナがウィリアムズに移籍し、チームメイトにはマーティン・ブランドルが加入。ハッキネンはエースの重責を担う。エンジンもプジョーを搭載。しかし、参戦初年度のプジョーエンジンはトラブルも多く7戦でリタイア。しかしハッキネンは2位1回、3位5回を獲得、シリーズ4位と健闘した。
1995年 マクラーレンMP4/10・メルセデス
決勝最高位 2位 
予選最高位 3位
シリーズ   7位(17P)

◆マクラーレンは前年のプジョーエンジンから、メルセデス・エンジンに変更。しかし、メルセデス・エンジンも信頼性に乏しく、完走率も低下する。ハッキネンは完走5度の内、2位を2回獲得するなど気をはく。
しかし、最終戦(第17戦)オーストラリアGPの予選初日のフリー走行中に高速コーナーでタイヤバーストの為大クラッシュ。頭部を強打し、意識不明の重体となる。しかし、幸いにも意識を取り戻すことが出来た。
1996年 マクラーレンMP4/11・メルセデス
決勝最高位 3位
予選最高位 4位
シリーズ   5位(31P)

◆チームメイトには、デビッド・クルサードが加入。
96年の開幕戦は、95年の最終戦でハッキネンが大工ラッシュを演じたオーストラリアGP。
本当にクラッシュから回復したのか、注目を集める中予選5位を獲得。決勝でも5位完走を果たす。フライング・フィンはF1に生還した。
結局3位入賞4回を含む11戦で入賞。熟成を始めたメルセデスエンジンと共に、成績は上昇を開始する。
1997年 マクラーレンMP4/12・メルセデス
優勝 1回 (ヨーロッパGP)
PP  1回
FL  1回
シリーズ 6位(31P)

◆開幕戦オーストラリアGPでチームメイトのクルサードがマクラーレンチームとして4年ぶりに優勝。さらにクルサードはイタリアGPで2勝目をあげるが、ハッキネンは優勝に届かない。しかし、このイタリアGPでハッキネンは初のFLを記録している。
そして第15戦ルクセンブルクGP(ニュルブルクリンク)で初めてのポールポジションを獲得。
そして、17戦 ヨーロッパGP(ヘレス)では予選5位から初優勝。参戦以来96戦目の優勝は当時史上最遅の記録だった。
1998年 マクラーレンMP4/13・メルセデス
優勝 8回
PP  9回
FL  6回
シリーズ 1位(100P) ワールドチャンピオン

◆第1戦オーストラリアGP、ハッキネンはピットとの連絡ミスによりクルサードにリードを許していたが、クルサードは紳士協定を守りハッキネンに優勝を譲る。ここから、ハッキネンの快進撃がはじまる。
シーズンはフェラーリのシューマッハーとのマッチレースとなる。最終戦日本GPを前にして、ハッキネン7勝(90ポイント)、シューマッハー6勝(86ポイント)。ハッキネンは3位以内に入ればチャンピオンが確定する状況。その上、フェラーリのシューマッハーはスタート前にオーバーヒートで最後尾から追い上げる展開となる。ハッキネンはあわてず8勝目をあげ、初めてのチャンピオンを獲得した。
1999年 マクラーレンMP4/14・メルセデス
優勝  5回
PP  11回
FL   6回
シリーズ 1位(76P) ワールドチャンピオン


◆開幕5連続PP。8-13戦も6連続PPと一発の速さでは圧倒したシーズン。
98年に引き続きシューマッハーとのタイトル争いとなると見られていたが、シューマッハーは第8戦イギリスGPでクラッシュ!右足を骨折し3ヶ月の欠場を余儀なくされる。ここで、ライバルはフェラーリのNo.2ドライバーだったアーバインになる。最大のライバルがいなくなったことで、ハッキネンが楽勝かと思われたが、フェラーリ&アーバインが逆襲する。
第13戦イタリアGPでは、TOPを快走中に自らのシフトミスでスピン、リタイア。ハッキネンはマシンから降りると、モンツァの森の中でむせび泣き続けた。
第15戦マレーシアGPからシューマッハーは復帰。またも最終戦日本GPが、決戦の場となる。予選2位スタートのハッキネンはスタートでシューマッハーをかわすと、そのまま逃げ切り2年連続のチャンピオンを獲得した。
2000年

マクラーレンMP4/15・メルセデス
優勝 4回
PP  5回
FL  9回
シリーズ 2位

◆2000年もライバルはフェラーリのシューマッハーだったが、この年のフェラーリ&シューマッハーは速さと強さを兼ね備え、ハッキネンも4勝と対抗するも、シューマッハーにチャンピオンを奪われ、3年連続チャンピオン獲得はならなかった。
しかし第13戦ベルギーGPではドライとウェットが混在する難しい路面状況の中、歴史に残るオーバーテイクを見せ、ハッキネンのすさまじさを強く印象づけた。

2001年

マクラーレンMP4/16・メルセデス
優勝      2回
予選最高位 2位
FL       3回
シリーズ   5位(37P)

◆フェラーリは前年同様マクラーレンのマシンを凌駕する戦闘力を発揮し、シューマッハーがシリーズをリードする。マクラーレン内でも、シリーズ序盤からクルサードがハッキネンを上回る結果を残し、ハッキネンは苦しいレースを続けた。それでも、第11戦イギリスGP、第16戦アメリカGPで優勝を飾ったが、第15戦イタリアGPで「休養」を宣言。
後進に同郷のキミ・ライコネンを推薦すると、静かにF1シーンから去った。

  ミカ・ハッキネンの全成績はこちらをご覧下さい(F1 Data Web)
ミカ・ハッキネンの記憶

フライング・フィンと呼ばれたフィンランド出身の元F1チャンピオン、ミカ・ハッキネン。
彼のレースはあくまでもフェアでありながら、激しい闘争心を持ち合わせていた。
2004年現在6度のチャンピオンに輝くミハエル・シューマッハーに対してその速さで対抗し得た、最強のライバルであった。

ハッキネンとシューマッハーの因縁は1990年に遡る。
この年、ハッキネンはイギリスF3、シューマッハーはドイツF3をそれぞれ制し、F3世界一決定戦と位置づけられるマカオGPで二人は対決する。
当時のマカオGPは15周ずつの2ヒートで行われ、そのトータルのタイムで総合優勝が決められていた。ハッキネンは第1ヒートを2位のシューマッハーに2秒差をつけ勝った。つまりハッキネンは第2ヒートで優勝しなくてもTOPから2秒差以内でゴールすれば総合優勝となるはずだった。
第2ヒートがスタートすると、ハッキネンはTOPを行くシューマッハーにピタリとつけていた。このままゴールすればハッキネンの優勝。しかし、前を走るシューマッハーが少しラインをはずしたときハッキネンは追い抜きにかかってしまった。結局このオーバーテイクに失敗、ハッキネンはガードレールに激突!リタイアしたハッキネンはガードレール脇で泣き叫んでいた。

後に、「フライング・フィン」をもじって「クライング・フィン」とも揶揄されることにもなった感情を抑えることが出来ないハッキネン、それはそれだけ全霊を込めてドライブしていた証なのだろう。

翌91年、ハッキネンはライバルのシューマッハーよりも一足先にF1にステップアップ。低迷するロータスでその力を発揮し出す。ライバルに先を越されたと見られていたシューマッハーもシーズン途中よりF1に参戦。シューマッハーは中堅チームで有ったベネトンのシートを得て、またもハッキネンはシューマッハーに先んじられることになる。

セナが無くなった94年にはライバル・シューマッハーは初のチャンピオンを獲得。対してハッキネンはようやくマクラーレンでフル参戦のチャンスを掴んだものの、いまだ未勝利。差は広がったかに見えた。さらに、95年最終戦オーストラリアGPでは生死をさまようクラッシュに見舞われる。頭部を強打し重体となったハッキネンのレース生命は絶たれたかに思われた。
しかし、ハッキネンは生還する。その闘志と速さは失われていなかった。97年最終戦で参戦96戦目という遅咲きの初優勝を果たすと、その真価を発揮し出す。
翌98年、速さにくわえて強さと落ち着きを身につけたハッキネンはシューマッハーとの争いに打ち勝ちチャンピオンを獲得した。さらに99年はライバル、シューマッハーが事故で3ヶ月欠場という状況のなか、アーバインとタイトルを争う意外な展開となったが、最終戦日本GPで優勝を決め、2年連続のチャンピオンとなった。

ハッキネンのF1での最も印象的なシーンは、二つある。
一つは1999年イタリアGPでアーバインとチャンピオン争いをしていた際に自らのシフトミスでコースアウト、リタイアしモンツァの森で泣き崩れていた事。まるで、90年マカオの再現のように跪き泣き崩れるハッキネンをTVカメラは写し続けていた。
もう一つは、F1で最も勇敢で美しい追い抜きと思われる、2000年ベルギーGP。ロングストレートで、困難な路面状況をものともせず、周回遅れ共々シューマッハーは一気に抜き去ったシーンだろう。どちらもハッキネンを象徴する印象的な映像だった。

日本では、その端正はマスクから女性ファンを多く獲得していたハッキネン。某F1誌では人気投票で連続1位を獲得するなど不動の人気を誇ったが、彼はルックスだけではなくすばらしい速さと誠実さを持ったアグレッシブなドライバーだった。反面、精神的に若干のもろさも有ったのかも知れないがモチベーションの高さこそ彼の速さの源泉で有ったように思われる。

引退後、4年を経てハッキネンはDTMにメルセデス・チームから参戦する。やはり、走りたいという欲求が高まってきたのだろう。充電時間をおいて、再度走り出すハッキネンはどの様な走りを見せてくれるだろうか。

関連サイト ミカ・マニアックス  http://cwaweb.bai.ne.jp/~peace/mika_maniax/
  (ただし引退後は更新がストップしている)



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